板垣退助と世界遺産(№357)

 板垣退助といえば「板垣死すとも自由は死せず」というあまりにも有名な言葉をすぐ連想し、自由民権運動を先導した人物ということで、現在の時代感覚でいうと何となく弁舌に長けた口先先行の文民政治家との印象を抱いていました。そういう認識が一変したのはかつて東北に旅した時に会津若松市に立ち寄り、野口英世記念館に次いで鶴ヶ城の博物館を見学した時でした。戊辰戦争における白虎隊に関する説明には、当時の官軍東山道方面軍の総督府参謀が土佐藩板垣退助とあり、会津城攻略のための進軍経路の中で、城の背後に位置し最も手薄な飯盛山付近の侵入口に目をつけて集中攻撃をかけ市街戦に持ち込んで城を攻略したとされています。それが結果的に白虎隊の悲劇につながったわけですから、高知県人は会津ではよく思われていないのではと危惧しましたが、やはり彼の真骨頂は戊辰戦争で見られたような侍の気概と戦略眼に特徴づけられる武士としての面目にあったように思われます。
 一昨年修復成った陽明門を見に訪れた日光東照宮の近くにも若い頃の洋装の板垣退助の銅像があり、彼の地でも崇敬の的になっていることを知りました。官軍司令官であった彼が、日光東照宮に立てこもった大鳥圭介(医師でもあった)率いる幕府軍に対して由緒ある社殿を戦いで破壊するに忍びないので、山を下りて決戦するよう説得したと伝えられます。幕府軍もこれに応じたために、日光東照宮は戦禍を免れ、彰義隊の戦い(上野戦争)で多くの伽藍を焼失した寛永寺とは対照的に、日本人のみならず海外からの観光客でにぎわう世界遺産となって今日にいたっており、感慨を新たにしました。

(一旅人)

2020年05月27日